TED
「物事の「良し悪し」は思い込みに過ぎない」の要約です。
ヘザー・ラニエ
要約
「良いか悪いかは分からない」
私たちは往々にして、状況に勝手な判断でレッテルを貼り、具体的な意味を持たせてしまいがちです。
でも、物事の良し悪しは、しばしば思い込みに過ぎないのです。
物事の良し悪しにしがみついてしまうと、状況を真に見極められなくなるので、しがみつく手を緩めて進めば、もっと多くを学べますし、開かれた考えで、好奇心を持って進むことができます。
障がいをもって生まれてきた娘
ところが7年前、初めての子供を授かったとき、私はこの教訓をすっかり忘れていました。
子供を持つことに関しては、欠点がひとつもない超健康優良児を産むのが、良いことだと思っていました。
ウォルフ・ヒルシュホーン症候群です。娘の4番染色体には欠失があるのです。
この症候群の患者には、大幅な発達の遅れと障がいがあることが分かりました。歩いたり話したりできない人もいます。
状況は間違いなく「悪い」ように思えました。娘が診断を受けてから何週間も、私は失意の底に沈んでおり、すべてが悲劇的だという考えに閉じこもっていました。
しかし、学ぶことはもっとあったのです。この不可思議な我が子をよりよく知るにつれて、 固く閉ざされた悲劇の物語は開き始めました。
娘のために、何人かのセラピストを呼びましたが、どの人も娘の何が「悪い」かに注目していました。
思い込みを手放す
細胞レベルで言うと、娘は非常にまれな設計図を持っています。
他の人とは違うようにできているのです。
まれな人生を送ることになるのでしょう。
私は、神経学的な違いや、発達の遅れや障がいを「悪い」ものだとする考えを手放して、五体満足な生活の方がいいという考えも手放すことにしました。
人生の良し悪しを決めるものについての文化的な偏見を捨てて、娘の人生が進んでいくのを、開かれた考えと好奇心を持ってただ見守るのです。
人生の良し悪しを決めるものについて、しがみついていた考えを捨てると、娘の人生が進んでいくのを、あるがままに眺めることができました。
それは美しく、複雑で、喜ばしく、困難で、つまり人間の経験のひとつの形であったのです。
最終的に私たちは、良いセラピストに巡り会えました。
彼らはうちの子の悪いところばかりに注目せず、普通と違うことを直すべき問題だとはとらえませんでした。
娘の限界を認識はしましたが、娘の長所も見てくれました。
あるがままの娘を認めてくれ、娘をできるだけ「普通」に近づけることではなく、できるだけ自立できるように手助けしてくれました。
レッテルを貼ることは人間性を奪うこと
しかし、世の中の文化は障がいに対し、これほど開かれた考えを持ってはいません。
生まれつきの違いを「先天性欠陥」と言い、まるで人間を工場のラインで作られた製品のように呼びます。
同僚の赤ちゃんがダウン症だと分かると、哀れむような目で見ます。
障がいは悪いものだとする考えは、こういう形で社会に表れます。
でも、驚くほどに有害な反対の言説もあります。
知的障がい者は 「善」だとする物語です。障がい者は、私たちに何か素晴らしいことを教えてくれるし、天使のように可憐で常に優しいと言うのです。
しかし、娘は他の子がするような、いたずらをする子供に成長しました、
例えば4歳の時には、歳の妹を押したこともあります。
うちの娘も他の子と同じように、人をうんざりさせたっていいのです。
人に「悲劇的」だとか、「天使のよう」だとか、良し悪しのレッテルを貼ることは、人間性を奪うことです。
人間であることの苦労や複雑さのみならず、権利や尊厳をも奪うのです。
娘は私や皆さんに、何かを教えてくれるために存在するのではありません。
しかし、私は、人生の良し悪しを決めるものが、何であるかという私の文化的な思い込みに 「疑問を付する」という贈り物を娘からもらいました。
うちの子は人間だというだけです。それは大きな意味のあることです。
まとめ
・文化的な良し悪しは、単なる思い込みにすぎない。
・人に良し悪しのレッテルを貼ることは、人間性を奪うことにつながる。
・思い込みを手放すことで、多くのことを学べ、開かれた考えで好奇心をもって進むことができる。
感想など
社会だけではなく、一個人としての思い込みもありますよね。そもそも、自分はこういう人間だと思いこんでいる。
例えば、自分は人見知りだ!とか。私のことですね(笑)
重要なのはこの先です。人見知りがダメだと思うから自己嫌悪に陥るのであって、良し悪しを決めつける必要はないんですよね。
人見知りだったからどういう事実が起こったのか、その事実から何を学んだのか。
そして、それを今後どう活かしていくのか。
良し悪しのレッテルを貼らなければ、人見知りだろうがなんだろうが、どうでもいいんです。